ALS若者ケアラーのblog

ALS患者の母を持つ20代若者介護者のblogです。

「デスハラ」について

今日はちょっと趣向を変えて、ネットで見つけた記事についての投稿。

不勉強な部分も多いのだが、現時点での考えを記録しておきたい。

 

【デスハラ】安楽死が容認された日本を描いたというツイッターの漫画が話題に!これでも安楽死の合法化を望む?

https://snjpn.net/archives/136086?fbclid=IwAR3DLkUcb7CrCK4Wy0duR_GFm2bQyzIvOfSaBjrtHN7uH72UPoZ35B99WSY

 

「デスハラ」、というパワーワードに思わず反応してしまった。

 

前提として、私個人の意見としては、安楽死は「反対に近いケースバイケース」だと思っている。

この前のNHKスペシャルで、積極的な安楽死を選んだ日本人女性のドキュメンタリーをやっていたが、彼女の死が許せないものだと私は思わない。

 

極めて個別性の高い、1つ1つのケースを慎重に、ものすごく色々な角度から眺めてないと、とてもじゃないが判断がつかないと思う。(当たり前だが)

 

これは、「どんなことがあっても自殺はダメだ」といった方向性の話とは、また別の切り口で捉えるべき問題だ。

 

 

例えばよく、認知症で本来のその人らしい思考や判断ができなくなってしまった人たちのケースなどを一括りにして「安楽死を認めるべき」という人がいるが、それはあまりに過激で危険な思想だと感じる。

 

中には、先述の女性のように、自分自身や家族がそういった過酷な状況に置かれたことで「認めて欲しい」と訴えている場合もあるが、それはあくまで個別のケースの問題にとどめておく慎重さも(あるいは受け取る側がそう捉えることも)必要であり続けるのではないか、と思う。

安楽死を判断するための要因は複雑に絡み合っていて、安易に一般化するのは危険だ。

 

なんにせよ、「迷惑をかけずに潔く生を終える」vs「助かる見込みのない命を引き延ばす」という対立構造に単純化して、命の問題をとらえては絶対にいけない。

それは、今のところ安全圏(と言っていいのかわからないが)にいる人たちの命や、人権や、安心な生活をも脅かす思想だからだ。

 

 

ALS界隈の人たちが「安楽死」について発信しているのをよく見かけるが、彼らのいう通り、どちらかの枠に収まらないケースは無限にある。

なのに、「どちらかしかいない」という構造に捉えられてしまうことで、そのぶん今は「他人ごと」である人たちが、いきなり安楽死問題の当事者になってしまう可能性は高くなる。

 

 

要は、私たちが生きる社会の側の受け入れや生活向上のための制度・インフラ諸々が整えば、今後も含め「積極的な死」を考えなくて済むような生活を実現できる層がたくさんいる(ALS患者はその端的な一例と言える)。

そういった社会、「どんな風になってもあなたは生きていていいんだ」と社会が全力で応援できる環境を工夫して創っていくことを本来は優先すべきで、尊厳死安楽死の議論はそのあとだ、と。

 

多くの現場に触れたわけではない私は、大それたことを言うのは気がひけるが、個人としては私も、上記のようなことを思う。

 

 

重ねて大げさに言うのであれば、「積極的な死」をすすめられるほど、 社会は人の「積極的な生」に対して責任を果たしきれていないのではないか。 

死ぬ権利と言えば確かに聞こえはいいのだが、まずは予防医療、介護予防、技術の進歩、その他いろいろな工夫や知恵によって解決できる部分の割合をどんどん大きくしていくことが大事だ。

 

例えば、かなり介護負担が重めとされている認知症患者の中にも、過ごしている環境によって症状の表れに違いがみられるといったことがある。

そういった話を聞くと、本来その人が持っているはずの力を、私たちの無理解によってないがしろにするようなことがあってはならないと強く思う。

 (なので、少しずつ良事例を作ってお互い学びあっていくべきだ)

 

 

私自身、母が病気になる前は、のんきにも「人間、生まれるときは選べないんだから、死ぬときくらい自分で選びたいなあ」なんて考えたこともあった。
ただ、今考えればそれはただの言葉遊びみたいなものだ。

 

よくよく考えたら、純粋な意味で「自分で選ぶ」、またはそれに限りなく近い形で選択することなど、本当に可能なのか?

 

「デスハラ」という4文字はこの問題を端的に表しているように思う。

 

前にも書いたが、ALS患者の7割は人工呼吸器をつけないで亡くなる。

この数値だけ見ても、今人工呼吸器をつけて生活している人も含め、社会に十分なリソースがないせいで「緩やかなデスハラ」にあった人は多いのではないかと推測できる。

 

人の意思は、純粋にその人の内から湧き上がった想いだけで決まるのではない。

(特にすでに安楽死が認められていたり延命治療のない諸国に比べ、日本人は特にその傾向が強いというのは各所で言われている)

 

日本に、積極的な死が容認されるようになった社会が訪れたとして、何が起きるか。


確かに今現在、病気などで大変苦しんでいる人にとって、何らかの救いになる面は大いにあるかもしれない。


だけど、制度として認められることによって、

自身や大切な人の命が脅かされたり、不本意な形で死を選ばされることはないと言えるか。

「生きたい」という気持ちを無視され、社会から死を選ばされることの恐怖や理不尽さを感じずに済むと、本当に言えるのか?

 

生死に関わる制度の設計をする側の人たちは、これからも引き続き慎重に進めていってくれるであろう(と信じたい)が、一般の人たちの意識はどうなのだろうか?

上記に挙げた漫画がバズっているのは、「安楽死」に対する一般的な考えに対しての強い問題提起として成り立っているからだろう。

 

制度が人の命を左右する前に、社会が人を殺していいものか、という。

 

ただ、安楽死賛成派の人の中にも、グラデーションはあるし、上記の漫画によって考えが多面的に深まった人もいるだろうし、安易に「安楽死擁護派」vs「反対派」に単純化して個人の考えを否定するのも違う。

 

私たちは、まず安楽死問題の当事者となる人たちを少しでも減らせるように包摂的な社会の実現を目指していきながら、

それでも直面してしまう人たちに対してはどこまでも慎重に、丁寧に、想像力を働かせておかないといけないと思う。

 

参考:

https://kaigonews.joint-kaigo.com/article-10/pg323.html

https://abematimes.com/posts/3736653

https://www.2kaime.com/entry/2017/11/23/anrakushi

https://kaigonews.joint-kaigo.com/article-10/pg323.html